高橋英子のスペイン、グラナダ、きもったま

スペインの歩み


やっぱり凄い!ビエナル、キンセーナ...本場のフラメンコ


セビージャの留学生活ではフラメンコレッスンや語学学校、アンヘル君他の友人たちと
付き合う傍ら、何かフラメンコの公演とかイベントとかがあるといそいそ出かけました。
先ずは本場のフラメンコを「観る」こと、そして「知る」ことが肝心でした。
中でも定期的に開催される大きなフラメンコフェスティバルはとっても楽しみでした。

今も世界最大のフラメンコフェスティバルとして健在のビエナル・デ・アルテ・フラメンコBienal
de Arte Flamencoは私がセビージャ入りした前の年、1980年に始まりました。2年ごと(bienal)
にあるこの催し物、第1回はカンテ(唄)、次がバイレ(踊)、その次がギターに捧げるといった具合に
なっていて、厳選されたアーティストによるコンクール(ヒラルディージョ賞)もありました。
第1回のカンテの年はカリスト・サンチェスがヒラルディージョを受賞しました。
出場者はスペインのペーニャから選ばれた6人のすでに一流の唄い手でしたが、そのうちの1人が
辞退したので次点だったカリストが出場することになり、なんと賞を獲得してしまったということ
です。アントニオ・マイレーナの生地、マイレーナ・デ・アルコール出身で、学校の先生だったと
聞きました。カリストはこのコンクールのために練習に練習を重ねて臨んだと自らを振り返って
いました。私は81年秋にアルカサール(王宮)での催し物でカリストの美声に魅了されました。
まさに正統派のきちっとしたカンテ、伸び伸びとした歌唱力で凛々しく、その透き通った声で
感情込めて唄います。私はカリストのグラナイーナやティエントなどが好きで、彼の唄う歌詞を
勉強したりしたものでした。
calixto.png

82年はバイレの年でマリオ・マジャがヒラルディージョを受賞しました。(下の写真)
この時のビエナルは凄かったのです。コンクール出場者はぺパ・モンテス、アンヘリータ・
バルガス、フォアン・ラミレス、そしてマリオという全くタイプの違う個性的なメンバーでした。
この時アンへリータは確か、グアヒーラを踊ったんです。頭に何か飾りターバンみたいなもの
巻き付けていたかな?とにかく想定外だったんで微笑ましかったです。盛り上がりました。
アトラクションでは、セビージャバイレフラメンコ界のマエストロ(大御所)エンリケ・エル・コホ、
マティルデ・コラール、ラファエル・エル・ネグロ(マティルデの夫)、そしてファルーコという
そうそうたるアーティストが出演しました。その時の映像をご覧ください。
フィエスタでマティルデがタンギージョ・デ・カディスを踊っています。マティルデの身のこなし
足さばき、とってもフラメンカでいいですよ。歌っているのはチャノ・ロバート!
しだいにファルーコもエンリケ先生も仲間入り。楽しいですよ!
mario.png

他にも「フラメンコとアンダルシア音楽の15日間」キンセーナ・デ・フラメンコ・イ・ムシカ・
アンダルッサQuincena de Flamenco y Musica Andaluzaという催し物がありました。
アンダルシアの貴重な音楽財産を守り続ける人々が、アンダルシアの西から東から
やってきたのです。カディスのチリゴタChirigotas、グラナダ、アルメリアなどの地方に
昔からあるトゥロボTrovoなどの私たちには珍しい歌なども含めた多彩なプログラムは
とても興味深いものがありました。フラメンコだけでなく、アンダルシアには何世紀も前から
今も引き継がれている唄や踊りがあることを知り、それはそれは感激の到りでした。
その時は、ただただ圧倒されるばかりでしたが、後になって、フラメンコが歌われはじめ、
広くアンダルシアに浸透していった歴史や、それ以前のアンダルシアにあった音楽、踊りって
いったいどんなだったのか?などということに興味も湧いてきたりしました。
baileregional.png

あれこれフェスティバルを見に行って、幅広いフラメンコの世界を知りました。
また、フラメンコの表現スタイルもいろいろとバリエーションがあり、退屈させないのでした。
ブレリア、タンゴなどを歌って踊るフェステーロ、ルンバグループ、歌ったり踊ったりを
順々に見せるヒターノのファミリー、詩を朗読するレシタドール......ピアノフラメンコも
あの時代からありました。中でもフェステーロの出し物でコミカルに笑いを誘う語り調のブレリア、
「エル・ボンベーロ」El Bombero消防士(ナノ・デ・へレス)などはとっても面白いです。こんなのもあるんだなぁと感激でした。
フェスティバルのプログラムにはアカデミアの先生集合、名門ファミリー勢ぞろいや、
大御所のアーティスト共演もあったりと、実に様々な出し物が楽しめました。

とにかくスペインに行ったばかりでしたから、いろんなフラメンコ、アンダルシア音楽に
生で接することができて幸せでした。また、「フラメンコとはこういうものなんだよ!」と
教えてくれているようで、嬉しかったのです。舞台に満ち満ちたアーティスト達のエネルギー、
凄いパワーに呑みこまれてしまい、何を見ても感動していました。
まだ観る目も聴く耳も肥えてなかったので、実際のところわからないことが多かったのですが、
回を重ねて観ているうちに分かってくることもあり、やはり数多くの公演やアーティストの
演技を何回も観ることは大切だと思ったりしました。
82eiko.png

こうやって本場のフラメンコが身体にグイって刺さって、ニョロニョロって入って来ました。
そして、じわじわっと時間を掛けて留まっていったのです。セビージャの生活では、
自然にスペインに慣れることから始まりましたので、あれこれフラメンコ以外にも
勉強しなくっちゃならないことがあり、フラメンコ以外の友だち付き合いもあり、けっこう
忙しかったのです。でもこうやってフラメンコに接している時間は一番有意義でしたから、
大切にしながらフラメンコを少しずつ吸収していったという感じでした。

                                       (続く)

*****   *****   *****   *****   *****  *****

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身近にあったフラメンコ


seiza.pngセビージャの観光名所でもあるサンタクルス街でのペンションでの生活。昔のユダヤ人街ということで、細っこい道が多く、夜遅くなるのはちょっと物騒でもありましたが、タクシーが近くまで入れるところだったので幸いでした。秋になって、念願のアソテアAzotea(屋上)の部屋に変えてもらえたのは嬉しかったです。
隣にあるアルカサルAlcázar(王宮)の城壁がすぐ横に見えました。
毎日夜空の星を眺めながら眠れるので最高でした!

でも台所を借りて自炊などを始めてから、自炊の時間の問題や台所の流しやコンロなどの使い方や
掃除や冷蔵庫の事やらなんやで、どうもペンションのおばさんと口論が尽きなくなりました。
それはほんとに些細なことなんですが、こっちは注意を払っているつもりでも、おばさんにとっては
気になることがあるのです。おばさんは住み込みでペンションの管理をしているので、台所は
おばさんの天下です。誰もいない昼間にちょっと練習したりはOKだったんですが......。
その他にも、トイレもシャワーも共同だったし、カギの問題など何かと不便なことばかりでした。
しだいにペンションでの生活に疲れを感じ、とにかくちゃんと条件のそろっているアパートを探し
はじめました。新聞などで貸家の情報も得られたんでしょうが、そういうことにはまだ慣れて
なかったので、ペンション界隈を歩いて、歩いて、あちこち人伝てに探し回りました。
そして、サンタクルス街の隣のバリオBarrio(地区)にやっと小さなアパートを見付けました。
真ん中に小さなパティオPatio(中庭)がある一軒家の中に、バス・トイレ・キッチン付きのお部屋が
いくつかあって、ちょうど奥の部屋が空いていました。大屋さんの家族も2階に住んでいて出入口が
ひとつなので、あまりプライベートはないけれど、なにかと世話してもらえそうで安心して住めると
思いました。それで、引っ越しを決行しました!ペンションのおばさんは口うるさいけどとっても
いい人。なんだかんだ言っても仲良くしていたので、心が痛みましたが仕方ありませんでした。


cocina3.pngさて、新しいアパートでの生活が始まりました。5分ぐらい歩くとメルカードMercado(市場)があって、直ぐ近くにコメスティブレComestible(食料品)小さなお店もあって便利でした。語学学校はメルカードの先にあって歩いて行けましたし、今まで住んでいたペンションもやっぱり歩いて5分ぐらいなのでおばさんにも時々会いに行っておしゃべりできました。大屋さんの家族も明るく、温和な人達で、日本人は初めてということでとても歓迎してくれました。わたしも家族の一員のように付き合ってくれて嬉しかったのであります。

igresia.png引越して直ぐに2人の訪問客が突然現れました。誰かと思ったら、なんとドアの向こうに立っていたのは中学1年生ぐらいのカップルでした。大屋さんの末息子アンヘルと隣りに住んでいたマリロです。2人は大の仲良しで、いつも一緒に遊びに来てはあちこちに連れて行ってくれてましたっけ。なにしろわたしは言葉がまだまだで、話すと急に幼稚になってしまう(笑い)。背伸びしたがる年代の彼らにとって、丁度いい遊び相手になっていたのかもしれないです。

payaso.pngアンヘル君はとにかく元気いっぱい、お芝居とかが大好きでした。学芸会があるから見に来てと言うのでいそいそ行ったら、なんとパジャッソPayaso(道化師・ピエロ)の格好をして出て来たんです。スペイン人は仮装するのが好きだけど、ちょっと恥ずかしそうだったかな(笑い)。そんなアンヘル君でしたが、ある日突然、ニコニコ顔で自慢げに「フラメンコ、僕ちょっと知ってるよ。」と歌いだしたのです!それは下記のファンダンゴ・デ・ウェルバでした。

Tomate / Qué culpa tiene el tomate / Que está tranquilo en la mata / 
"pa"que llegue un tio malaje / Y lo meta en una lata / Qué culpa tiene el tomate 

トマト畑にアンダルシアの太陽を浴びてすくすく真っ赤に育っているトマトを想像してください。
なんで悪いおじさんがやってきてトマトの平和な生活を奪い、缶詰にしちゃうの?トマトがいったい何をしたというの? わたしなりの言葉で訳すとこんな感じの意味となります。トマト缶にされてしまうトマトのはかなさと、罪のないトマトをトマト缶にしてしまう大人への怒りを唄っているみたいです。子供らしいレトラ(歌詞)で、かわいいじゃないですか!そして、こんなのもあるよ、こんなのも......って沢山レトラを教えてくれたのでこっちはビックリ、アンヘル君の株が急に上がりました! でも何でそんなに知っているのかなと思ったら、なんと学校で習ったと言うのです。
ヘェー!そうなのか~。やっぱりスペイン!(アンダルシアだけかな?) 

実はファンダンゴが大好きなわたしです。それはスペインで初めて身近に感じたフラメンコだったからかもしれません。ファンダンゴと一口に言ってもその種類はいっぱいあって、アンへル君が歌っていたのはウェルバ地方のファンダンゴです。ウェルバのファンダンゴもまたその中にいっぱい種類があって驚きなんです。土地の人はリズムに乗って軽やかに唄います。短い詩の中に様々な気持ちが込められていることが多いです。実はこのトマトのレトラですが、後になってもともとはチリ(国)のフォークソンググループが70年代に歌ってヒットした権力を振るう地主に対する貧しい農民達のプロテスト・ソングの一部だったのがわかりました。それを誰かがファンダンゴ調にして歌ったのでしょう。こういうこともあるんですね。それはともかく、いつか時間ができたらアンダルシアを旅行して、あちこちで土地の人たちが歌うファンダンゴを聴いてみたいものです。

annnai.png豪華メンバー!
新春フィエスタライブを準備中です!


フレッシュ!留学生活スタート


旅行では行っていても初めての長期留学です。あれこれ考えたりしていたんでしょうが、
どうするもこうするも、とにかくスペイン語が聞き取れない、話せないでわからないことだらけ。
さっそくメモ帳を買ってきて書きまくり、そして聞きまくる毎日とあいなりました。
ある時、「これ、どういう意味?」って先輩に聞いたら、「それは私の旦那の名前よー!」って
笑われたことがありましたっけ。(笑い)

amigodeidioma.pngそれでです!先ずは学校に行ってスペイン語を勉強しなければいけないということで、セビージャ大学付属の語学学校に通いました。クラスメートはアメリカやヨーロッパ、中近東などからの留学生でした。左の写真は試験の後に撮ったのかな?その時のクラスメートと先生のパコです。たった5人の少人数クラスでしたので、授業ではしょっちゅう先生に何か話しかけられ、嬉しいような悲しいような、緊張しっぱなしで蒼白状態のわたしでした。
ある日先生は「エイコは冴えない顔をしている、どうしたの?」と質問してきて、その文が授業内容になってしまったくらいです。(笑い)

また、1年ぐらいクラシックバレエの学校にも通いました。これは先輩の勧めでした。
わたしも必要性を感じていましたので、ちょっと試してみることにしました。

balletclasico.pngとは言っても、予備知識ゼロのわたしです。
ピアノ音楽に合わせてバレエ用語が次から次へと飛び交い、なんだか訳の分からない世界に入ってしまい、最初の戸惑いは激しかったです。みんなのやっていることを先ずは真似することから始まり、まぁ実に複雑なバーレッスンではあれあれっという間に次に進んでしまい、気が狂いそうなレッスンでした。
たまに先生がこっちを見て何か叫んでいると緊張してしまうけど、ビエンBien!「良し!」という言葉が聞こえてくると安心したり......。それでもなんとかコンセルバトリオ(王立音楽舞踊学院)のクラシックバレエ第1コースに合格しました!
トウシューズを履く前までです。左の写真、恥ずかしながら本邦初公開!でもなかなかそれらしくないですか?


語学学校に朝一で行き、その後学校とは正反対のトリアーナ地区にあるマノロのスタジオへ行って
個人レッスン。その後に歩いてバレエ学校へ行き、みっちりクラスレッスン。
クタクタになって家に戻りお昼ご飯の準備......そんなハードなスケジュールの午前中もありました。
語学学校とバレエ学校、そしてフラメンコのクラスに通う中でいつの間にかお友達もできてきて、
そちらのお付き合いもあり、生活が楽しくなって行きました。そして気が付くと、
学校での友達だけじゃなくって、なんだかんだといろんな友達の輪の中に自分は居たのです。

絵の好きなわたしはある日セビージャ大学の美術学部であったピカソの講演会へ行ったのでした。
その時に知り合ったのがサルスティアーノSalustianoです。略して「サルー」。
わたしは名前を聞いて思わず微笑み「エッ!サル(猿)?」、こっちはとにかく無知なんで、
勝手な解釈で本人幸せだったんですね。サルーってsalud(健康)の方でした。
そこに彼の友人がやってきて、「僕の名前はドミンゴDomingo」と言うのです。
「エッ!ドミンゴ(日曜日)?」曜日が人の名前だなんて面白い!などと感心したり。だいたい
キリスト教の聖人と同じ名前のスペイン人が多いですが、意味が多様だったりもするんですね。
そうこうしているうちに彼らの仲間がわんさか集まってきたのです。とにかくみんなにとって
日本人がとても珍しかったのですね。これを機会にと日本のことをあれこれ聞いてくるので
めまいがしました。宗教だの、産業だの、文化だの、わたしの名前の意味まで...。
しかもスペイン語で説明だなんてわたしには酷な話でした。そして、日本人でありながら
日本という国のことを意外とわかってなかった、忘れていたことに気が付きました!

amigodebellasartes.png美大生のサル―達は一つのピソpiso(マンション)に同居していたのでよく遊びに行きました。サル―はちょっと異色で菜食主義だったかな?私の前でフラメンコは嫌いとハッキリ言うし、よく私のスペイン語の間違いや発音を直してくれたので、それは嬉しかったけれど......ある日突然、真面目な顔をして、よく使われるからと教えてくれた表現が、実はタコスTacos(俗語・隠語)だったのです。タコスなんて言葉も知らなかったし、その時意味とか説明してくれたんでしょうがよく理解できず、さっそくメモして、声高々発音練習していたら、周りにいたみんながクスクス笑っているのです。
全くひどいじゃないですか!外国女性がタコスをしゃべっていると面白いんでしょうけど......。
みんなも私の手前、「全くしょうがない奴だ!」なんてサル―を批判。でもまぁ別にいいですよね、
こうやって仲間内で笑いながら楽しく勉強?させてもらえるんですから。
上の写真はわたしのバースデーパーティーです。わたし魚座なんで魚の形のケーキで「フー!」

amigodeclase.pngサル―を通じて他にも色んな仲間ができて、それはそれはあれこれあって忙しい毎日でした。そうそう、スペイン人ばっかりじゃないです。他の外国人や、同じ日本人の方々なども。
どんな留学生でも長く居れば自然にその土地に住んでいる人々との交流が始まるものです。その中で教えてもらえることって沢山あります。そして何かあったら協力してくれます。
わたしはわたしで、みんなに日本料理作ってあげたり、セビジャーナスのクラスやってあげたり、
ゆかた着せてあげたり......etcできる限りのことでお返ししてあげるととっても喜んでくれました。
上の写真はセビジャーナス仲間との2年目のバースデーパーティーです。

こんな風に土地の仲間に混じって日々を送りながら少しずつスペイン生活に慣れて行きました。
さて、次回はもっと小さな可愛い友だちをご紹介したいです。意外な発見があったのです!



セビージャの先生


セビージャでは現地に先に在住していた先輩にあれこれ教えていただきました。
今と違って、在住でフラメンコをやっている方は数えるほどしかいなかったと思いますが、
どこかトンチンカンなわたしを心配して、よく面倒みてくださる先輩がいまして感謝しています。
レッスンは、そのお世話になっていた先輩が一押しの先生、マノロ・マリンのアカデミーに、
ちょうどマヌエラ・カラスコとのレッスンがお休みになった時に通いはじめました。

マノロ・マリンはフラメンコだけでなくスペイン舞踊全般を習得している踊り手でした。
舞踊経験も豊かで、スタジオに若い時の舞踊写真が飾ってありました。
といってもあの頃のマノロは40歳後半ぐらいで、まだバリバリ踊れる歳だと思いますが、
もっぱら教授活動に力を入れているように見えました。マノロの振付やコンパス感覚の良さは
人気があり、多くの若いアーティストが彼の振付でコンクールの賞を獲得しています。
表立って活躍をするようになったのはもっと後のことでした。

普段のマノロはとても踊りの先生とは程遠いイメージ、人柄が気さくな感じ、ユーモアもあり、
楽しくレッスンできました。午後のクラスレッスンは学校帰りの若い生徒でいつもガヤガヤ、
あまり落ち着いてはレッスンできなかったけれど、午前中に週3回ぐらい受けていた
個人レッスンは、いつもたった30分だけだったのですが充実していました。
何故30分なのかって、それも先輩の勧めでしたが、土地の人にとってはそれが普通だったよう。
わたしも急いでいないので、頻繁にスタジオに通って少しずつ習っていくやり方でOKでした。
マノロ先生は、いつも舞踊靴ではなく、普通の靴らしきものを履いていたので、
サパテアードが分かりにくく、それがちょっと気になりました。でも、いつも壁に向かって
バレエのレッスンバーをつかみ、懸命にパソを考えてくださいました。懐かしいマノロの姿です。

manolomarin 1.png

わたしが習っている間にマノロを舞台で観られる機会は殆んどなかったと記憶しますが、一度、
踊りを拝見できる機会がありました。上の写真です。ホタというスペイン舞踊を踊っているので
びっくりしたのでした。そういえばいつだったか、何かの公演のフィン・デ・フィエスタに登場し、
テンポが速すぎる!と、音頭を取り直して踊ったブレリアがとっても面白くて流石なものでした。

manoloestudio.pngマノロにはソレアを習いました。また、関係ないのですが、ビゼーの
「カルメン組曲」の振付も......。でもこれはいったい何のため? 
マノロの豊かな舞踊知識やアイディアに感激し、いろいろ勉強になり、
楽しいレッスンだったけど、いったい何を考えていたんでしょうね? 
きっとわたしのことだから、セビージャでも発表会をやりたかったの
かもしれません、恥ずかしながら......でもまぁ、よくお付き合い
くださいまして、マノロ先生ありがとうございました!そういえば、
わたしの自習のためにスタジオを貸してもくださった。右の写真。
マヌエラのレッスンのために作った涼しいスカートで練習しています。

マヌエラのレッスンはお休みも多く、結局アレグリアスを習っただけで終わってしまったようです。
マヌエラの踊りって、マルカールはシンプルでエレガント、サパテアードもただ機関銃のように
ただ強いのではなく、自然な乗りがあるので見ていて燃えてきます。
そして堂々としたマルカールにそこはかとなく気品が漂います。その気品のもとは、
現在の大御所でいえばマティルデ・コラールが持っているGRACIAグラシアとか、
SALEROサレロたっぷりのセビージャならではの雰囲気です。ちょっとお澄ましした御嬢さん風の
エレガントなブラッソで、優雅に、粋に、フラメンカなアイレたっぷりの動きを見せてくれます。
わたしもあのマティルデ先生の何とも言えぬ上体やブラッソの動きに魅せられたものでした。
ブラッソだけじゃない、手先や、足先にも及ぶ神経の細やかさがみられます。

技術としてある程度習得できることも沢山あるけれど、何気なくやっているように見えて、
厭味のない、味あるアイレ、風情は技術的に習得しきれない何というか、神聖な世界のような。
それを感じられるだけで幸せだと考えたりもしてしまいます。マヌエラが褒めていたのは、
そのマティルデ先生の他、ぺパ・モンテス、アンヘリータ・バルガスなどでしたが、他のあの頃
活躍していたセビージャの踊り手さん達は、みんなそんな系統の気品を兼ね備えていました。
ただ、マヌエラやアンへリータになると、それ以外の良さが先にたってしまいます。 
あの、ちょっとマティルデ・コラールの若い時の映像を見てください。
古き良き時代の踊りって、まさにこんな雰囲気なのでしょう。いいですよ!
このビデオの一部分の流れが気に入りましたが、とても同じようにはできなかった記憶があります。



他に習った先生はラ・トナです。彼女も素晴らしい踊り手でした。彼女の踊りは先に述べた
セビージャの雰囲気とはちょっと違いました。
新宿のエル・フラメンコにも何回か出演していたのでご存知の方も多い筈です。
わたしがスペインに旅立った1981年にもエルフラに出演しました。下の写真。
いつだったか、ビエナル・デ・アルテフラメンコのヒラルディージョ(コンクール)で、ご主人の
唄い手エル・モリのセビージャのTrianaトリアーナ地区の伝統的な唄で、完璧かつ味ある演技を
見せてくださいましたが、賞が取れなかったのは納得のいかない残念なことでした。

tona3.pngトナはグラナダ出身ですが、長くバルセロナに住ん
でいて、セビージャに住むようになったのは、
結婚してからと聞きました。トナの素顔は地味で
穏やかで、とっても女らしい人。
彼女のサパテアードって凄く安定していて強く、
地についています。背が低いのにいつも低めの靴を
履いていましたっけ。
どんなパロ(曲種)も器用に踊り熟し、派手に火花を
飛ばすタイプではないけど、プーロなパロを踊ると
いぶし銀のアイレが充満していて惹き込まれます。
軽いリズミカルなタンゴを愛嬌たっぷりにも踊るし
詩の朗読なども踊りのイントロに入れてドラマチッ
クな構成の踊りもさりげなくやってしまうのは、
普段の彼女からは想像できない世界です。


わたしはアレグリアスとタンゴ・デ・マラガを習いましたが、
きちんとレマーテで決めて行く踊りに説得力があり、とても勉強になりました。

また、ホセ・ガルバンにも習いました。あの偉大なイスラエル・ガルバンのお父さんです。
ホセは小さい頃から舞踊経験が豊富で、その踊りはエネルギィッシュ、なかなかいいのです!
マノロ・マリンを東に、西にはガルバン!若手を育てた2人の功績は大きいです。

josegarban5.pngホセ先生は生徒と一緒にあちこちで活躍、よく
仕事にも連れて行ってもらい感謝しています。
他の生徒さん達とグループに入れてもらい、
老舗のタブラオにデビューさせていただいた
り、これは嬉しいことでした。習いに行って
直ぐに、どういう訳かコンクールに出るように
勧められましたが、そればっかりは自分も
まだまだでしたのでお断りしました。しかし
とても楽しく勉強させていただきました。
左の写真はポルトガルに行った時のスナップ。
仕事といっても勉強のためで、出演料なんて
なかったと思います。それらの経験もそのうち
お話ししますね。レッスンではバンベーラを
習いました。セビージャ生活で、ちょっと
雰囲気を変えたい時期に習いに行ったことも
あって、ダイナミックで力強い振付が新鮮で、
これまたとても勉強になったのでした!


今ではもうどんな振りだったのかとか細かいことはごくわずかしか覚えていないです。
そして、何を勉強したかとかは具体的に表現できませんが、上記のセビージャの先生方に
習ったことで、それが後になってから、いいアイレを吸収できていたのだなとわかりました。
何か、Poco a poco ポコ・ア・ポコ(少しづつ)ですが確実につかんでいたようです。
自然に呼吸するように勉強していく第一歩をセビージャで踏み出せて本当によかったと思います。

では次回から先生とのレッスンだけでなく、実際のスペイン留学生活ってどんなだったのか、
セビージャでの約2年間を角度を変えて振り返ってみたいと思います。



フラメンコの女王と絵葉書のバイラオーラ


さあ、6月のアンダルシアにタイムマシンが到着しました!
梅雨時のジメジメした暑さから一転し、大きな太陽がアンダルシアの乾いた大地を
飲み込むかのように照り付けている。かなり暑いけどスカッとしているなぁ~。 
実際の旅立ちは、スペイン語を教えてくれていた友人が一緒に旅行で行きましたので、
友人のグラナダやコルドバの知り合いを訪問し、それからわたしは一人セビージャに向かいました。
そして、フラメンコの友人に紹介してもらったサンタクルス街のペンションに
先ずはしばらく留まることにしました。

今から約30年前のあの頃は、日本人の留学生は少なかったのですけれど、
短期で勉強に来たりしている方はいらっしゃって、ワイワイガヤガヤみんなで
フェスティバルを見に行ったりして楽しく過ごしました。
今はフラメンコを総合的に習える学校もありますが、昔は大きなアカデミーは殆んどなく、
だいたいが好きなアーティストに直接レッスンを受けるという勉強の仕方で皆さんやっていました。

sevillapaisaje.png

わたしはというと、先輩の方々のお勧めの先生に習うつもりでいましたが、
行ったばっかりの夏の間は成り行きにまかせ、観る方に専念していました。
ある時、マヌエラ・カラスコに習っている方から「とってもいいから」とお誘いを受け、
他のお友達などと個人レッスンを受けるようになってしまったのです。
いきなり「フラメンコの女王」に習うなんて無謀のような気がしましたが、まだあの頃の私は
どんな素晴らしいアーティストがフラメンコ界にいるのかもよくわかっていなかったし、
ただなんか凄そう!という期待だけで、とにかく本物に近くで接するいいチャンスということで、
マヌエラの住む近郊の村までバスで通い出しました。

manuela.pngレッスンが始まりました。わたしは日本から持ってきた
長めの練習スカートでバタバタやっていたら、
「そのファルダは暑苦しいわね!」と言われてしまいました。
早速、次の日に安い水玉の化繊生地を買ってきて、ペンションの
おばさんのミシンを借りて、せっせと膝ぐらいまでの短い
テレテレの練習スカートを作ったのでした。そして次の日、
「そう、それなら涼しそうでいいわ!」とOKが出ました!
レッスン中のマヌエラはとにかく舞台で見るマヌエラと同じで、
気品があり、堂々としていて、ゆっくりと穏やかな口調。
とにかくとても一生懸命で、何回も踊ってくれました。
なんだか凄くラッキーな気分でレッスンが続きました。
幼いサマーラ(マヌエラの愛娘)がよくスタジオにやってきては、
ちょこちょこ走り回り、怒鳴り散らす場面もありましたよ。

わたしはアレグリアスを習ってみました。
今ではどんな踊りだったのか全然思い出せないですが、思い付くままにあれこれと、次はこれ、
次はこれっていうふうに、とにかくパソの羅列といった感じで、エスコビージャに到っては、
なんか永遠に苦手なサパテアードが続きそうだったのであります。
ちょっとこの足、大変!ということで、ペンションに帰ってきては台所のセメントのような
床の上で復習の毎日。足の苦手な私には好都合ではありましたが、台所の硬い床での練習は
さすがにちょっときつかったのであります。

エスコビージャが終わって、いよいよ楽しみにしていたブレリアになりました。
特に何ということもない振りが続いたように思います。ですが、気が付くとエエッ!
何、これ!といったあのマヌエラの雰囲気に全然合わない、滑稽な動きをしてくれたのです。
やっと出ました! 面白いパソ!わたしにピッタリのパソがあったのです。
これはヒットでした。そのパソを、その後わたしはわたし風にアレンジして
今でも思い出しては踊っているのです。

manuelafes.png

レッスンを受けることにより、普段の素朴でやさしいマヌエラと近くで接することができて
とても幸せでした。ある日、写真を見せてもらいました。整理なんかしてないらしく、
バラバラに散らばっている写真をかき集め、「好きな写真をあげるから選んで」と言うのです。
私はみんな素敵でどれにしていいか迷いましたがなんとか選びだし、
「これとこれがいいです。」って言ったら、さらっと、
「何枚もあげられないわ、私も持っていたいから。」って言われてしまいまして......。
当たり前ですよね。欲張りな自分が恥ずかしくなってしまいました。
でも、嫌な顔もせず、丁寧にサインしてプレゼントしてくださいました。

さて、マヌエラのレッスンも終わり掛けていた頃、こんなことがありました。

mariquillatarjeta.pngお土産物屋さんにフラメンコの観光絵葉書が売っています。
その中で素敵な踊り手さんを見付けまして、
ギターを抱えて椅子に座っている姿が決まっていました。
裏に「マリキージャ」と書いてある。
この人は誰なんだろう?って、気になっていました。
それで、ある日レッスンの後に隣りのバルで休んでいる
フォアキン・アマドール(マヌエラのご主人)と
お話しするチャンスがあった時に聞いたんです。
「マリキージャって知ってますか?」すると、
「エエッ!?」とクスクス笑い出して......。
日本で言うオカマのことをスペインの俗語でマリキータ
などと言いますが、どうも勘違いされてしまったよう。
わたしはきょとんとしてしまいましたが、
少しマリキージャの情報を聞き出せたという訳です。


おかしな話になってしまいましたが、少し経ってマリキージャとの出会いの時が来ました。
彼女はグラナダのサクロモンテで生まれ育ちましたが、
その当時はマラガ県トレモリーノスに住んでいて、トレモリーノスの中心街にある
タブラオ「ハレオ」のオーナー兼フィグーラ(スター)だったのです。
グラナダの近郊の村オヒハレスのフェスティバルで踊るというので、どうしても見てみたくなり、
一人はるばるグラナダまで見に行ったのです。

パンタロン姿でさっそうと登場し、曲は多分アレグリアスじゃなかったかな?
椅子に座ってタンゴを歌い、踊り、最後にはおでこにヘアバンド、
身体には大きなマントンだけを巻き付け、なんだかあの頃にしてはモダンなアイレ!
バラエティに富んだショーを見せてくれました。とにかくとっても早くて強いサパテアード!
レマーテを決めて見せる会心の笑顔がたまらないのでした。

mariquillafes.png

興奮したわたしは、終わった後、聞いたのです。
「クラスやってますか?」すると、
「毎日タブラオで踊っているし、小さい子供が3人もいて時間がないわ!」
そうか~残念!いつか習いたいなぁ~そういう訳でその時は諦めました。

マリキージャとはその後、縁があり、わたしをグラナダに呼び寄せたのも彼女なのですが、
彼女にとって「ハレオ」は自慢のタブラオでした。パコ・デ・ルシアをはじめ多くの
一流アーティストが「ハレオ」を訪問したり、働いていたりしたのよと、
ニコニコしながらよく話しています。そしてマヌエラもまだ小さい頃に踊りに来て、
マニキュアを唇に塗ってしまうような場面もあったとかで、エッ、本当かしら? 
マリキージャはマヌエラに衣装を2つもプレゼントしたらしいですが、
少女時代のマヌエラ、さぞかし可愛かったんでしょうね!


★マリキージャについては私のホームページでもご紹介しています。



会社を辞めて自由に羽ばたく! (2)


スペインに行く前のレッスンは、美穂先生に1年半ぐらい習った後、美穂先生のお勧めで、
その頃スペインから帰って来られた小島章司先生に習うようになりました。
この2人の先生にはレッスン以外にも同じ舞台に立たせていただいたり、
スペインでのお話を伺える機会もあって、楽しく充実した6年間を送ることができました。

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スペイン行を決意したのは、「来る時が来た」ということでしょうか。
やっぱりスペインに行かなければ話にならない、旅行じゃダメだ!
本場の様子をもっと探って、根本から勉強しなくっちゃダメだ!
などと思い始めてしまい、その想いから逃れられなくなってしまったのです。
会社に務めながら趣味でやって行く方がいいのでは......とズーっと悩んでいましたから、
わたしにとってはまさに一大決心だったわけです。

もう安定した生活は戻ってこないけど、スペインには行かなければならない!
そう思って涙ながらに会社生活を諦めたのでした。
さすがに会社生活最後の日のお別れ会では感極まりまして、
思い出の写真には目と鼻を真っ赤にして涙潤ませる自分が写っているのです。

決心してからのわたしは、スパスパ行動できました。
スパスパって、いったい何したかって、これがまたわたしらしいことなのですが、
会社生活最後の半年で8ミリ映画を作ったのです。題して「赤いファルダ」。
ドキュメンタリーが好きだった私が、とうとう自分で作ってしまったドキュメンタリーです。
「赤いファルダ」は、スペインへ行く前のフラメンコ一途の生活や楽しい日々を追ったもので、
20代後半の初々しい自分を振り返ることができるのです。
8ミリ映画の最後には赤地に白の水玉の衣装でアレグリアスを踊っているのです!
懐かし~い!わたしにもこんな時代があったのかっていう感じです。

この8ミリ映画は念入りにシナリオを作って色んなシーンを撮影しました。
でもある日、監督さんがニヤニヤしながら、どうもロマンスがないと面白くないって言うんです。
それで、レコード屋さんで知り合ったところの、フラメンコが昔好きだったという私と同年代の
ステキな感じの友人がいたので、ちょっとお願いしまして、写真で出演してもらったんです。
すいません!別になんのロマンスもなかったんです......でも、
フラメンコに夢中なわたしに貴重なレコード貸してくれたり、
色々フラメンコのお話ししてくれまして、とっても嬉しかった思い出があります。
しかしあの方は今どこでどうしているんでしょう?
考えてみれば、どこにいるのか分からなくなってしまっている思い出の人って沢山いますよね。

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話がそれましたが、とにかくこの8ミリ映画製作では、
色々な方に協力していただき、そして、
ご迷惑もおかけしてしまいました。
全く今考えると恥かしい話ですが、その時はもう、
とにかく一生懸命だったのです。
何か決まりを付けたかったのだと思いますが、
若気の至りということでしょうか。


スペイン出発前には、日本としばらくお別れということで記念ライブをやりまして、
その時この8ミリ映画を上映したのです。このライブのタイトルは「スペイン行の片道切符」。
でももう帰って来ないつもりではありませんでしたが、いつ帰ろうとか、
将来の計画とかを立てていた訳でもなく、ただただもう「行くんだ!」という気持ちと、
自分の人生の転換をするだけで大変で、他のことを考えている余裕はありませんでした。

むしむしする梅雨時の、小さな六本木自由劇場の舞台にベニヤ板を敷いて、
開場直前にできあがって来た8ミリをなんとか上映し、そして最後の舞を......。
今振り返るととっても、とってもほんわかしたライブでした。
終わって挨拶しようとしたら、感激で胸が詰まり、目が熱くなってきて、言葉にならず......。

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目を真っ赤にして泣いていたわたしって、
会社生活最後の日のお別れ会で感極まったり、
出発前のこのライブの挨拶の時に、
目が熱くなり、
溢れ出る涙を堪えきれなくなってしまっていた
自分の姿だったんです。
決して悲しくて泣いていたわけじゃありません。
感動の涙です。皆さんが
「頑張れ!」って応援してくださってくれて、
有り難くって嬉しくて凄く、凄~く
幸せな自分がそこにはありました。


そうして、1週間後に、髪の毛をバサッと切って、
全ての期待と全ての不安とを胸に、
成田からスペインへ出発したのでした。



会社を辞めて自由に羽ばたく! (1)


さぁ、我がスペイン青春時代に出発です。
わくわく浮き浮き、やっとタイムマシンが動き出しました!
なんだか淡色系の光が交錯する音のないとても不思議な世界を通過しています。
あれ、何だろう? 何か赤っぽい鮮やかな光が輝き出しました。
わたしはてっきりスペインのあの眩しい太陽かと思いきや、そうではなく、
それは目を真っ赤にして泣いているわたしだったのです。
いったいどうしたというのでしょう?

先ずは、スペインに旅立つ前ってどんな自分だったのか、
わたしはどんな風にしてスペインに旅立つことになったのか、
そんなところから振り返っていきたいと思います。

30数年前の今ごろ、わたしは長年勤めていた会社を辞めてスペインに行くことになり、
あれこれ、バタバタとその準備に追われていました。
わたしはOL出身で、10年間の会社生活を送っているなかでフラメンコに出会いました。
そしてフラメンコを始めてからスペイン行を決意するまでの約6年間は、
会社勤めの傍らそれはもう半端じゃないフラメンコ三昧の日々を送っていました。

レッスン以外に自主練習、公演を観に行ったり、タブラオへ行ったりは勿論のこと、
スペイン旅行に行ったり、ハレオの研究会に参加したり、イベントで踊らせてもらったり、
自らフラメンコショーを企画してお仕事したこともありました。
スペイン語はちゃんと学校で勉強したことはなく、会社のスペイン語同好会に所属したり
大学でスペイン語を専攻し、スペインへも留学したことがある友人からスペイン語を習い、
わたしがセビジャーナスを教えるというインテルカンビオをやったりしていましたっけ。


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そして、フラメンコを始めて1年半ぐらい経った時には、
自分のリサイタルまでやってしまいました!それも銀座のど真ん中のガスホールです。
3月3日のひな祭りに「楽しい夕に」っていうタイトルで、勿論、入場無料。
あちこちでちょこちょこ踊る機会はあっても、
あれこれと習った踊りのおさらい会をやる機会ってなかったからでしょうか......。
きっとリサイタルに憧れていたんでしょうが、先立つものが無かったらできません。
悠々自適なOL生活をしていて資金があったからでしょう。わたしは恵まれていました。


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フラメンコを始めたのは、会社生活4年目のクリスマスからお正月に
会社の友人とスペインに旅行した時のこんなエピソードがあったからです。
セビージャで年越しを迎えました。確か泊まったホテルだったと思いますが、
フラメンコパーティー(フィエスタ)がありまして、引っ張り出された私は
どうしていいかわからなくなり、手足をバタバタ......なんとも恥ずかしかったのです。
こんな楽しい時にリズムに乗れないなんて! と、歯がゆい思いでした。
みんなと踊って唄って楽しめたらいいなぁ~! 

そうなのです。きっかけは単純なのです。
誰でも青春時代は自分が本当に好きになれるもの、打ち込めるものを探しているものです。
わたしもいまどきの言葉で「婚活」ですか?そんな雰囲気全然なくて、
ただひたすらにフラメンコが気になって気になって仕方なくなってしまったのです。 


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旅行から帰って、さっそくカルチャーセンターでスペイン舞踊を習い始めました。
発表会もありまして、ホタや、ジプシー舞踊(サンブラ)なんかを踊ったりました。
半年ぐらいした時、田中美穂先生に出会い、フラメンコの基本を学ぶようになりました。
その頃、会社の友人が結婚することになって、「結婚式で踊って!」って頼まれていたので、
最初のレッスンはセビジャーナスを習うことにしました。
毎週1番ずつ4週で4番まで個人レッスンで習ってマスターしました。
そして、美穂先生が貸してくださった縞柄にバラの花が点在している衣装で、
友だちの結婚式でデビューとあいなりました。


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そんな風に始まって、まあとにかく楽しくって、楽しくって、フラメンコが大好きで、
大好きでしょうがなくなってしまった訳です。まさにマニアックなまでにハマってしまい、
水玉に凝る、髪の毛は伸ばす、耳にピアスの穴は開ける等々、年ごろの娘でしたし......。
そういえば、ピアスの穴を開けた日、着付けの先生だった亡き母に、
「英ちゃん、耳に付いてる小さなものなんなの?」って、叱られるように聞かれまして......。
母には信じられない世界だったみたいで、とっても嘆いていたことも思い出します。
そんな母に、スペイン行を打ち明けた時のことも思い出しました。
「長くても1年半ぐらいじゃないかなぁ~」と遠慮して言っていたわたしですが、
逆に「3年ぐらいは行ってくる覚悟じゃなくちゃダメだね!」って発破を掛けられたのでした。

                                        (続く)

[リサイタルの写真:渡辺亨]


タイムマシンに乗って


いいアイディアがある! 
タイムマシンに乗って自分の青春時代に戻ってみてはどうだろう。
32年前、スペインに旅立ってからの第2の青春だ!
カナリア諸島にも行きたかったけれど......それはいつでもいい。
そうだ、タイムマシンにいっぱいお土産詰めて帰ってこよう!