映像でしか見たことがなかった、
いや、それで十分に見た気がしていたロシオ・モリーナを、
生の舞台で初めて見たときの驚きはかなりものだった。
と言ってもそれが叶ったのはごく最近、
2018年のビエナル・フラメンコでの公演
「グリト・ペラオ」。


ちょうど妊娠七ヶ月あたり、
お腹がふっくらとしたロシオの姿は
今思い返しても大変貴重なタイミングだった。
この時しか見ることができなかったわけで、
事前情報もスペイン語力も持たないワタシは、
開演前に必死でプログラムの作品解説を読み、
どうやらドキュメンタリーのように彼女のリアルと心の内とが
表現(ひょうげん)され作品(さくひん)みたいだ、ということだけは汲み取り(くみとり)鑑賞(かんしょう)した。
©Simone Fratini_CaidadelCielo_4_LD.jpg一言で言えば、とにかく圧倒された。
この人はどうしようもなく外れようもなく
骨の髄からフラメンカなんだ、
こんな人がいるんだ、ということに感動した。
舞踊を見る時、
コンテンポラリー「ぽい」もの、
モダン「ぽい」ものは、
最初はいいのだけれど
やがてその嘘臭さを私たちは見破ってしまい、
見ているうちに飽きてくる。
けれどもロシオの場合は、
彼女にとって、
いま・この音をきいて・この手が・こう動く、
ということが、曇りなく真実なんだということが伝わってくるから、
その動きを見ている間、飽きるということがない。
あくまでも彼女の使うムーヴメントは、
嘘がなくベーシックな安定感があるものばかりだ。
そしてそれらをこなす身体能力の素晴らしさ、
これはやはり生で見てこそ、
その凄さがはっきりと感じられる。
かのミハイル・バリシニコフが、
ロシオの公演を見て彼女の前に膝まづいたというが、
身体の動きそのもので感動を生み出すというのは、
本当に稀有なことだ。
そうして、ロシオはセリフを喋るかのように
フラメンコを使って、
舞台の上から語りかけてくる。
フラメンコのテクニックが
深く染み付いているその身体は、とっても饒舌だ。
また、彼女の作品は時に深く重いものをテーマに持ちつつも、
私たちがそのちょっと過激な演出にびっくりしたり、
時には思わず眉をひそめたりしながら見ている途中で、
必ず「マジになりすぎちゃった、ごめんね」とでも言うかのように、
クスッと笑わせてくれる。
そんなところから、ちょっとひょうきんなロシオの人柄と
そのエンタテインメント性を垣間見られて、
舞台が終わる頃には、
わたしたちはすっかりこの人のことが好きになってしまうのだ。
今もまだ私と同じように
ロシオ・モリーナの生ステージ未体験という
フラメンコ好きの方が多くいらっしゃると思う。
中には、あえて避けている方もいるかもしれない。
その理由が「フラメンコ的な踊りが見たいから行かない」なのだとしたら、
大丈夫、それは誤解です、
ものすごくフラメンコです。
水玉のワンピースは手放したけれど、
ご存知の通りサパテアードもブエルタも手放していないし、
何より、フラメンコのコンパスが強烈に流れている。
必要なセリフはすべてフラメンコで語られる。
舞台は生が一番。
今は新旧のあらゆる映像をネットで見ることができる。
しかし、その映像から、温度感や息遣いを感じ取ることはなかなか難しい。
アーティストの呼吸を生でたくさん体験してこそ、
映像を見た時にもその向こうにあるものを読み取れるのではないだろうか。

アクースティカ倶楽部

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