日本でもフラメンコ通、愛好家たちは沢山いますね。カンテファンも年々増加してそういう人達が集まるペーニャという会が存在しますが、本場スペインでは流石に沢山のペーニャが存在し、多くの人が会員になって皆でフラメンコを楽しんでいます。でも大半の人はカンテ(歌)が好きなのです。ですからカンテが第一なのですが、ギターやバイレも勿論忘れていません。ペーニャは様々な活動をしながらアーティストを育て、フラメンコ繁栄の一役を担っています。
スペインに数あるペーニャの中でもグラナダにはその模範のような由緒あるペーニャがあります。「スペイン最古のペーニャ」と言われているペーニャ・ラ・プラテリアです。個人的にはこのペーニャで数回踊らせて頂いたりしてとてもお世話になっています。このプラテリアなしに我がフラメンコ史は語れない、そんな親愛なるペーニャです。私見もありますが、是非この機会にプラテリアについて書いてみたいと思います。
ペーニャ・ラ・プラテリアは1949年に設立され、今年創立70年を迎えました。その歴史をたどってみると、設立当時は地元のフラメンコ好きが集まる単なる会合(Tertuliaテルトゥリア)だったということです。時代的にはスペイン市民戦争が終わってフランコ体制になって10年経った頃ですが、グラナダではマヌエル・サラマンカという銀細工職人(Plateroプラテーロ)の工房(Plateríaプラテリア)にフラメンコ仲間が集まりはじめ、そのテルトゥリアが後にペーニャとなりました。マヌエル・サラマンカ(創立者)がプラテーロだったこと、彼のプラテリアに集まっていたことから「ラ・プラテリア」と名付けられました。
プラテリアが現在のアルバイシンにある立派な建物に移ったのは設立から20年経った1969年頃です。自分たちの公式な場所をやっと確保できた経緯には、プラテーロ達の限りない情熱とたゆまぬ努力があったのです。新しい陣地での出発、きっと希望に燃えていたことでしょう。
とはいえまだフランコ時代で、人々が集まることは禁止されていたということですから、警察の人なんかがいつも偵察に来ていたようですね。いったいどんなふうだったのでしょうか? 70年のペーニャの歴史って、そう思うと興味深いです。
実はこの70年の歩みがドキュメンタリー "Platería 70. Una historia flamenca."になり、この5月に劇場で試写会がありました。ペーニャ発足からの貴重な記録や、発足当時からペーニャを維持し発展に貢献したプラテーロ達の語る面白いエピソード泣き笑い?なども収められているそうです。面白そうですね。
そんなペーニャ・ラ・プラテリアですが、新居を構える前のペーニャはそれこそ映画を観ないとわかりませんが、70年代からは徐々にペーニャらしい活動が始まったのだと思います。最初の大きな催し物とみられるのは1972年の「コンクルソ・デ・カンテ・ホンド、50年祭」という記念行事です。
グラナダでは1922年に「コンクルソ・デル・カンテ・ホンド」というマヌエル・デ・ファジャやフェデリコ・ガルシア・ロルカ他著名人が主幹となって開かれた歴史に残るフラメンココンクールがありました。グラナダの愛好家たちはこのコンクールは意義深く、グラナダが誇るフラメンコ界最大のイベントとしてとても重要視しています。そんなこともあってか、その後も1979年より何年かの間同じようなイベントを催しました。そのステキなポスター群は今もペーニャのサロンにバーンと飾られています。常にこの1922年のコンクールを意識した活動をしてきたのです。今後100年祭などの行事もあることでしょう。フラメンコの歴史に華を添えたこのコンクール抜きにペーニャの歴史も語れないようです。
さて、最初にペーニャ・ラ・プラテリアはスペイン最古のペーニャと言われていると書きました。おそらくテルトゥリアらしきものはいたるところにみられたのがあの頃のアンダルシアかもしれない。でもその中でも、設立からの歴史が今に語り継がれ、常にフラメンコに敬意を払い、限りない愛情を持って意欲的な活動をしてきたペーニャって殆んど知られてないのかもしれません。セビージャやカディスはどうなのでしょう? 少なくともグラナダのペーニャ・ラ・プラテリーアを語る時、フラメンコ界の信頼を得て、明らかに格付けされているものがあると思います。謂わば「お墨付き」、スペイン最古と銘打つにふさわしいペーニャといえるのではないでしょうか。
(つづく)