高橋英子のスペイン、グラナダ、きもったま

2013年5月


会社を辞めて自由に羽ばたく! (2)


スペインに行く前のレッスンは、美穂先生に1年半ぐらい習った後、美穂先生のお勧めで、
その頃スペインから帰って来られた小島章司先生に習うようになりました。
この2人の先生にはレッスン以外にも同じ舞台に立たせていただいたり、
スペインでのお話を伺える機会もあって、楽しく充実した6年間を送ることができました。

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スペイン行を決意したのは、「来る時が来た」ということでしょうか。
やっぱりスペインに行かなければ話にならない、旅行じゃダメだ!
本場の様子をもっと探って、根本から勉強しなくっちゃダメだ!
などと思い始めてしまい、その想いから逃れられなくなってしまったのです。
会社に務めながら趣味でやって行く方がいいのでは......とズーっと悩んでいましたから、
わたしにとってはまさに一大決心だったわけです。

もう安定した生活は戻ってこないけど、スペインには行かなければならない!
そう思って涙ながらに会社生活を諦めたのでした。
さすがに会社生活最後の日のお別れ会では感極まりまして、
思い出の写真には目と鼻を真っ赤にして涙潤ませる自分が写っているのです。

決心してからのわたしは、スパスパ行動できました。
スパスパって、いったい何したかって、これがまたわたしらしいことなのですが、
会社生活最後の半年で8ミリ映画を作ったのです。題して「赤いファルダ」。
ドキュメンタリーが好きだった私が、とうとう自分で作ってしまったドキュメンタリーです。
「赤いファルダ」は、スペインへ行く前のフラメンコ一途の生活や楽しい日々を追ったもので、
20代後半の初々しい自分を振り返ることができるのです。
8ミリ映画の最後には赤地に白の水玉の衣装でアレグリアスを踊っているのです!
懐かし~い!わたしにもこんな時代があったのかっていう感じです。

この8ミリ映画は念入りにシナリオを作って色んなシーンを撮影しました。
でもある日、監督さんがニヤニヤしながら、どうもロマンスがないと面白くないって言うんです。
それで、レコード屋さんで知り合ったところの、フラメンコが昔好きだったという私と同年代の
ステキな感じの友人がいたので、ちょっとお願いしまして、写真で出演してもらったんです。
すいません!別になんのロマンスもなかったんです......でも、
フラメンコに夢中なわたしに貴重なレコード貸してくれたり、
色々フラメンコのお話ししてくれまして、とっても嬉しかった思い出があります。
しかしあの方は今どこでどうしているんでしょう?
考えてみれば、どこにいるのか分からなくなってしまっている思い出の人って沢山いますよね。

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話がそれましたが、とにかくこの8ミリ映画製作では、
色々な方に協力していただき、そして、
ご迷惑もおかけしてしまいました。
全く今考えると恥かしい話ですが、その時はもう、
とにかく一生懸命だったのです。
何か決まりを付けたかったのだと思いますが、
若気の至りということでしょうか。


スペイン出発前には、日本としばらくお別れということで記念ライブをやりまして、
その時この8ミリ映画を上映したのです。このライブのタイトルは「スペイン行の片道切符」。
でももう帰って来ないつもりではありませんでしたが、いつ帰ろうとか、
将来の計画とかを立てていた訳でもなく、ただただもう「行くんだ!」という気持ちと、
自分の人生の転換をするだけで大変で、他のことを考えている余裕はありませんでした。

むしむしする梅雨時の、小さな六本木自由劇場の舞台にベニヤ板を敷いて、
開場直前にできあがって来た8ミリをなんとか上映し、そして最後の舞を......。
今振り返るととっても、とってもほんわかしたライブでした。
終わって挨拶しようとしたら、感激で胸が詰まり、目が熱くなってきて、言葉にならず......。

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目を真っ赤にして泣いていたわたしって、
会社生活最後の日のお別れ会で感極まったり、
出発前のこのライブの挨拶の時に、
目が熱くなり、
溢れ出る涙を堪えきれなくなってしまっていた
自分の姿だったんです。
決して悲しくて泣いていたわけじゃありません。
感動の涙です。皆さんが
「頑張れ!」って応援してくださってくれて、
有り難くって嬉しくて凄く、凄~く
幸せな自分がそこにはありました。


そうして、1週間後に、髪の毛をバサッと切って、
全ての期待と全ての不安とを胸に、
成田からスペインへ出発したのでした。



会社を辞めて自由に羽ばたく! (1)


さぁ、我がスペイン青春時代に出発です。
わくわく浮き浮き、やっとタイムマシンが動き出しました!
なんだか淡色系の光が交錯する音のないとても不思議な世界を通過しています。
あれ、何だろう? 何か赤っぽい鮮やかな光が輝き出しました。
わたしはてっきりスペインのあの眩しい太陽かと思いきや、そうではなく、
それは目を真っ赤にして泣いているわたしだったのです。
いったいどうしたというのでしょう?

先ずは、スペインに旅立つ前ってどんな自分だったのか、
わたしはどんな風にしてスペインに旅立つことになったのか、
そんなところから振り返っていきたいと思います。

30数年前の今ごろ、わたしは長年勤めていた会社を辞めてスペインに行くことになり、
あれこれ、バタバタとその準備に追われていました。
わたしはOL出身で、10年間の会社生活を送っているなかでフラメンコに出会いました。
そしてフラメンコを始めてからスペイン行を決意するまでの約6年間は、
会社勤めの傍らそれはもう半端じゃないフラメンコ三昧の日々を送っていました。

レッスン以外に自主練習、公演を観に行ったり、タブラオへ行ったりは勿論のこと、
スペイン旅行に行ったり、ハレオの研究会に参加したり、イベントで踊らせてもらったり、
自らフラメンコショーを企画してお仕事したこともありました。
スペイン語はちゃんと学校で勉強したことはなく、会社のスペイン語同好会に所属したり
大学でスペイン語を専攻し、スペインへも留学したことがある友人からスペイン語を習い、
わたしがセビジャーナスを教えるというインテルカンビオをやったりしていましたっけ。


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そして、フラメンコを始めて1年半ぐらい経った時には、
自分のリサイタルまでやってしまいました!それも銀座のど真ん中のガスホールです。
3月3日のひな祭りに「楽しい夕に」っていうタイトルで、勿論、入場無料。
あちこちでちょこちょこ踊る機会はあっても、
あれこれと習った踊りのおさらい会をやる機会ってなかったからでしょうか......。
きっとリサイタルに憧れていたんでしょうが、先立つものが無かったらできません。
悠々自適なOL生活をしていて資金があったからでしょう。わたしは恵まれていました。


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フラメンコを始めたのは、会社生活4年目のクリスマスからお正月に
会社の友人とスペインに旅行した時のこんなエピソードがあったからです。
セビージャで年越しを迎えました。確か泊まったホテルだったと思いますが、
フラメンコパーティー(フィエスタ)がありまして、引っ張り出された私は
どうしていいかわからなくなり、手足をバタバタ......なんとも恥ずかしかったのです。
こんな楽しい時にリズムに乗れないなんて! と、歯がゆい思いでした。
みんなと踊って唄って楽しめたらいいなぁ~! 

そうなのです。きっかけは単純なのです。
誰でも青春時代は自分が本当に好きになれるもの、打ち込めるものを探しているものです。
わたしもいまどきの言葉で「婚活」ですか?そんな雰囲気全然なくて、
ただひたすらにフラメンコが気になって気になって仕方なくなってしまったのです。 


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旅行から帰って、さっそくカルチャーセンターでスペイン舞踊を習い始めました。
発表会もありまして、ホタや、ジプシー舞踊(サンブラ)なんかを踊ったりました。
半年ぐらいした時、田中美穂先生に出会い、フラメンコの基本を学ぶようになりました。
その頃、会社の友人が結婚することになって、「結婚式で踊って!」って頼まれていたので、
最初のレッスンはセビジャーナスを習うことにしました。
毎週1番ずつ4週で4番まで個人レッスンで習ってマスターしました。
そして、美穂先生が貸してくださった縞柄にバラの花が点在している衣装で、
友だちの結婚式でデビューとあいなりました。


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そんな風に始まって、まあとにかく楽しくって、楽しくって、フラメンコが大好きで、
大好きでしょうがなくなってしまった訳です。まさにマニアックなまでにハマってしまい、
水玉に凝る、髪の毛は伸ばす、耳にピアスの穴は開ける等々、年ごろの娘でしたし......。
そういえば、ピアスの穴を開けた日、着付けの先生だった亡き母に、
「英ちゃん、耳に付いてる小さなものなんなの?」って、叱られるように聞かれまして......。
母には信じられない世界だったみたいで、とっても嘆いていたことも思い出します。
そんな母に、スペイン行を打ち明けた時のことも思い出しました。
「長くても1年半ぐらいじゃないかなぁ~」と遠慮して言っていたわたしですが、
逆に「3年ぐらいは行ってくる覚悟じゃなくちゃダメだね!」って発破を掛けられたのでした。

                                        (続く)

[リサイタルの写真:渡辺亨]